精神分析とは

精神分析とは何か? 精神分析は,否定存在論にもとづく〈 存在 の 穴の〉実践的 現象学である.そのようなものとして,精神分析は,欲望を 異状から 昇華へ 導く.

精神分析とは,その本質において,何か?

精神分析は,clinical psychologist が行う「カウンセリング」の 一種でしょうか? 精神科医が行う 保険診療の一項目としての「精神分析療法」でしょうか? あるいは,ちまたに流布している「...の精神分析」と 題された 本や 雑誌記事の類で引き合いに出される 浅薄な心理学理論のひとつでしょうか? いわゆる現代思想や「ポストモダン」の哲学者や 社会学者たちの一部が ときおり 言及する 空理空論でしょうか?

日本で一般に精神分析と呼ばれている それらのものは,本当の意味での精神分析ではありません.実際には,精神分析の名に値するものは 日本の社会に いまだに まったく根づいていません.

改めて 問いましょう.精神分析とは 何か? ラカンは 1955年の 或る論文において 精神分析をこう定義しています:「精神分析とは,精神分析家が為すもの と 人々が 期待するところの 治療である」.では,精神分析家とは何か? それは,精神分析された者,自身の精神分析の経験をまっとうした者 である.

循環論法にしか見えないかもしれないラカンの議論のねらいは,このことに 存します:すなわち,精神分析の本質を,寝椅子を用いるとか 患者を自由連想法で語らせるとか 面接時間は一回50分である といった 外的形式によって 規定するのではなく,而して,精神分析されて在る (être psychanalysé) 者 である 精神分析家の存在の本有の観点から 思考すること.

そのような存在論的観点から,こう定義することができます:精神分析は,言語に住まう存在としての 人間存在の 穴の 実践的現象学である

「実践的」と言うのも,ヘーゲルの『精神の現象学』が「思弁的」であるのに対してです.そして,「現象学」と言うとき,それは,ハィデガーが「存在論は現象学としてのみ可能である」と言うときの「現象学」です.

そして,精神分析の純粋な ‒ 非経験論的な ‒ 基礎を成すのが,否定存在論です.それを,ラカンは,ハィデガーの思考から抽出してきました.

ラカンの教えに準拠するとき,精神分析家で在ることは,精神分析治療を職業として行うことに存するのではありません.精神分析家は,ひとつの生業の社会学的名称ではありません.しかして,「精神分析家で在る」ことは,ひとつの否定存在論的 かつ 倫理学的な 規定です.

ハィデガーの用語で言うなら:精神分析家は「自有」(Ereignis) である.

自有とは,最も本自的に実存することです.あなた自身の存在があなたに請求してくることに あなたが最も従順であるとき,あなたは 自有です.そして,自有は,自由の本質です.

存在欠如 (le manque-à-être) の メトニミー としての 欲望 に関する 表現で 言うなら:精神分析家は,異状な欲望 (le désir aliéné) から 脱して,昇華された欲望 (le désir sublimé) へ 至り得た 者である.

そも,あらゆる価値が無価値となり,欲望はどこにも満足を見出し得なくなった現代社会のニヒリズムの超克を可能にするのは,新たな欲望満足の手段のでっち上げではあり得ません.それを可能にするのは,欲望の昇華のみです.

精神分析家の使命

存在の穴の現象学的構造に応じて,精神分析の école は 二重の機能を有します.ひとつは,存在における精神分析にかかわるもの,もうひとつは,存在事象そのもの全体における精神分析にかかわるもの.それらは,ラカンが「内包における精神分析」ならびに「外延における精神分析」と呼ぶものに それぞれ 対応しています.

内包における精神分析,すなわち,存在における精神分析とは,精神分析の実践そのものです.あなたが精神分析を経験する(いわゆる個人分析を受ける)とき,あなた自身の存在が問題になります.それこそが,精神分析の本質です.

他方,外延における精神分析,すなわち,存在事象そのもの全体における精神分析とは,社会において精神分析を現在化するものの総体です.それは,精神分析という名称そのものを始めとして,精神分析に関するあらゆる言説を含みます.

したがって,東京ラカン塾も ふたつの機能を 果たします.

ひとつは,精神分析の経験の可能性を万人に提供すること,つまり,いわゆる個人分析の求めに応ずることです.それは,あなたが最終的に精神分析家になることを始めから目ざしているか否かにかかわりません.

もうひとつは,フロィト-ハィデガー-ラカンのボロメオ結びに準拠しつつ,精神分析とその主体の存在とに関する問いを展開することを試みるセミネールの実施です.東京ラカン塾のセミネールは原則的に一般公開であり,誰でも参加することができます.

あらゆる人間が精神分析を身をもって経験し,精神分析家に成ること,それが,東京ラカン塾の最終目標です.ただし,先ほども述べたように,精神分析家で在ることは,職業として精神分析を営むことではなく,「最も本自的に実存する」という否定存在論的かつ倫理学的な規定です.